高知地方裁判所 平成2年(わ)94号 判決 1990年9月17日
主文
被告人を懲役三年に処する。
この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。
理由
(本件犯行に至る経緯)
被告人は、昭和三八年一月、知人の紹介で乙川春子(昭和一一年四月三日生)と見合いのうえ婚姻し、爾来同居していたが、同女が昭和六〇年一一月ころ発病し、検査の結果、軟骨肉腫であることが判明し、その後は高知医大病院、川村胃腸外科病院、岡村医院などに入退院を繰り返していた。同女は平成二年一月一三日右岡村医院を退院して、自宅で静養することとなり、被告人は会社を休職して看病にあたっていたが、同女の痛みがひどく、しばしば「死にたい」ともらすようになり、そのうち被告人自身も同女とともに自殺を考えるようになり、被告人が同女を車に乗せ「排ガス心中」なども試みたりしたが失敗に終った。同年三月一五日午後四時ころ、被告人と同女とは心中しようと決意し、被告人が同女を自動車に乗せ、飛び降り場所を探すなどしたがみつからず、結局同女が自宅風呂場でカミソリ自殺をすることとなり、心中しないまま帰宅した。同日午後九時過ぎころ、風呂を沸し、被告人が同女を風呂場まで連れて行き、同女から「ここで切るき、手伝って」と依頼され、同女がカミソリの刃を頚部に当てて引くのを、被告人が上から手で押さえるなどして手伝った。その後、被告人は同女から同女が自殺するまで来ないように言われ、しばらく風呂場を離れたものの心配になり、再び風呂場に戻ったところ、同女から「死にこくったき、また、引いて」と死にそこなったので、もう一度カミソリで首を切ってくれとの嘱託を受け、カミソリを手渡された。
(罪となるべき事実)
被告人は、かねてより妻春子が軟骨肉腫のため苦しむのを不憫に思っていたところ、平成二年三月一六日午前二時三〇分ころ、高知市<住所略>の被告人方風呂場において、同女から「死にこくったき、引いて」等と殺してほしい旨哀願されてこれを承諾し、同女の頚部をカミソリで切ったり、傷口に湯をかけるなどしたが、同女が死なないばかりか、その頚部の傷口の大きさに動転して同女を早く死亡させようと考え、同女の頚部を両手で強く締めつけ、よって、そのころ同所において、同女を扼死するに至らしめ、もって同女の嘱託を受けてこれを殺害したものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示所為は、刑法二〇二条に該当するので、所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、情状により同法二五条一項を適用して、この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予することとする。
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、被告人の本件行為について
一 安楽死であって、違法性が阻却され無罪である。
二 期待可能性がなく責任が阻却され無罪である。
旨主張するので、この点についての当裁判所の判断は、次のとおりである。
まず、安楽死について考察する。
1 いわゆる安楽死に該当する場合には、当該行為は違法性がなく、犯罪の成立が否定されるものであることは、当裁判所もこれと同一の見解を有するものである。
2 ところで、いわゆる安楽死に該当するためには
a 病者が現代医学の知識と技術からみて救済の見込みのない不治の傷病により死期が目前に迫っていること
b 病者の苦痛が著しく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものであること
c もっぱら病者の苦痛を緩和させる目的で行われること
d 病者の意識が明瞭であって意思を表明できる場合には、本人自身の真摯な嘱託または承諾があること
e 医師の手によって行なわれるべきこと
f 安楽死の方法がそれ自体社会通念上、相当な方法であること
の各要件をすべて具備することが必要であると解すべきである。
これを、本件について見るに、前記e及びfの各要件が充足されていないものである。弁護人は、この点につきこれらを欠く場合にも安楽死を認め、被告人の行為についてその違法性が阻却されるべきである旨主張する。
しかしながら、もともと生命の尊厳は絶対的なものであって、これを損なう行為が社会的相当性を具備してその違法性が阻却されるのは、きわめて例外的な場合に限られると解すべきであろう。そうだとすると、安楽死の認められるべき場合の要件についても、やはり厳格に全要件を満たした場合にのみ認められるべきものと解すべきである。
かくて、この点についての弁護人の主張は採用できない。
つぎに、期待可能性について考察する。
期待可能性とは、行為の当時における具体的事情のもとにおいて、行為者にその違法行為に出ないで他の適法行為をなしえたであろうと期待しうることをいうものである。そして責任要素としての「故意」あるいは「過失」の内容を為す要件であると解され、すなわち期待可能性がない場合には、「故意」も「過失」も認められないから、犯罪が不成立となるものである。
本件においては、前記(本件犯行に至る経緯)で述べたとおり、被告人が被害者の生前、その看病などに精根を傾けていた事情は十分窺うことができ、その夫婦愛は広く、かつ、深いものであったと認められる。
しかしながら、被害者の「軟骨肉腫の末期症状」のような不治の疾病で著しい苦痛を伴うような場合には、医師により、例えばモルヒネなどの麻薬を使用するなどして、その苦痛を緩和することも現代の医学において承認されており、心中することや患者が自殺するのに手助けをする前にとるべき方法(再度入院し、患者の苦痛をやわらげるための医師の治療行為を受けることなど)を、なお期待できる余地があり、従って被告人の本件行為に期待可能性がなかったものとはいえない。
かくて、この点についての弁護人の主張も採用できない。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 田村秀作)